②トピックス 16 セクショナリズム
セクショナリズム
~ 大日本帝国陸海軍を例に検証 ~
旧日本陸海軍は敗戦後に連合国によって解体されましたが、そのセクショナリズムの根深さから「二本」軍と自嘲、揶揄するOB、識者も少なくありません。大日本帝国の屋台骨を支えた旧日本軍が「セクショナリズムの教科書」に堕していった様を辿ってみたいと思います。
~ 「隼」と「ゼロ戦」 ~
第1次世界大戦(1914年~1919年)を契機として、軍用機の性能は著しく向上しました。軍用機の攻撃力が増大したことにより、陸上戦闘においても、海上戦闘においても、制空権を確保することの重要性が高まってきました。このため、各国は競って軍用機の開発を進めましたが、特に敵航空勢力を排除する役割を担う戦闘機の開発は最優先事項とされました。
日本の陸海軍も欧米列強に対抗出来る戦闘機の開発を目指しましたが、その際、限られた資源(予算、人材 等)を有効に活用するという視点は完全に欠落していました。陸軍は「隼」に代表される陸上戦闘機を、海軍は「零戦」に代表される艦上戦闘機を、それぞれ別個に開発しようとしました。
英米等との関係が緊迫の度を増しつつあった1930年代後半から1940年初頭にかけて、日本は軍用機増産体制を構築すべき状況に置かれていました。日本海軍は、中国奥地への爆撃に赴く陸上攻撃機を護衛する必要もあり、長大な航続距離と優れた格闘性能を持つ零戦(零式艦上戦闘機)を完成させ、迎撃してきた中国空軍機を全滅させるなど、万全の態勢を整えつつありました。一方の日本陸軍は、主力戦闘機の開発が遅れたことにより、隼(一式戦闘機)の量産化の目途が立たない状態でした。
しかし日本陸軍の幹部は、国際情勢が緊迫の度を増していたにもかかわらず、「このままでは対英米戦に間に合わない。当座のしのぎでも構わないから、海軍さんの零戦をコピーさせてもらって戦備を整えよう。」と考えることはありませんでした。主力戦闘機を陸海軍で共通化すれば、生産・開発コストは抑えられるし、いざという時の交換部品や整備器具等の融通も可能でした。しかし、誇り高い帝国陸軍軍人達には、国益のために海軍に頭を下げるという発想は微塵もありませんでした。
~ ライセンス料を「二重払い」 ~
軍用機の性能を大きく左右する要素の一つがエンジンですが、その開発能力はその国の工業力、科学技術力の粋とも言われています。戦前・戦中の日本における軍用機開発においてエンジンの開発はネックであったことから、同盟国ドイツの技術を使わせてもらう必要がありました。その際、日本の陸海軍はドイツ企業と個別にライセンス契約を結んでいたと伝えられています。二重にライセンスフィーが転がり込んできたドイツ企業は喜んだことでしょうが、日本軍において軍事予算の無駄遣いを懸念する動きは見られませんでした。
~ 航空機工場内「別居」 ~
戦況が厳しくなる中、日本の航空機メーカーは陸軍と海軍の双方から軍用機製造を受注するようになりました。同じ工場の中で陸軍用航空機と海軍用航空機の製造が並行して進められていたわけですが、いつの間にか両製造ラインの間に壁が立てられるようになり、「隣は何をする人ぞ」の状態になっていきました。勿論、同じような形状の部品が別の生産ラインに紛れ込むことを防止する目的もあったのでしょうが、どうもそれだけではなかったようです。
戦争後半になると、鉄鉱石やボーキサイトなどの戦略物資を積んだ輸送船が米軍の潜水艦や爆撃機に撃沈されることが多くなり、陸海軍とも航空機製造用資材の確保に苦労するようになりました。その一方で、前線からは「早く飛行機を送ってくれ」と矢の催促でしたから、各製造工場に派遣されている陸海軍将校達には強烈なプレッシャーがかかっていました。そのような状況下、工場内で資材「強奪」事件が発生するようになりました。
日本陸軍は組織規模が大きかったため、ほぼ全ての軍需工場に担当官(陸軍将校)を配属して生産現場を監督出来る状況にありました。これに対して、規模が小さい日本海軍は、一人の担当官(海軍士官)が複数の生産現場を担当する体制を採らざるを得なかったため、各工場を巡回しながら生産状況等をチェックしていました。このため、陸軍の生産ラインで資材が不足した場合、常駐している陸軍将校が海軍機の生産ラインに行って「この資材を借用する」として、海軍機の製造責任者に有無も言わせずに資材を持って行ってしまいました。後日、当該工場を巡回した海軍士官がその「徴発」の事実を把握しても、陸軍から「返済」してもらうのは至難の業でした。
~ エンジニアを「ヘッドハント」 ~
戦局が逼迫する中、陸海軍ともに新型機の開発に全力を挙げて取り組んでいました。そのようなある日、海軍の技術研究所に勤務する技術者に召集令状が届きました。海軍は「彼は新型機開発の中心メンバーであり、この時期に抜けられては困る。」と陸軍に掛け合いましたが、当該命令が撤回・変更されることはありませんでした。
海軍の人事担当者が後日、当該技術者の陸軍での配属先を調べて驚きました。陸軍から召集令状を受けて応召した技術者は、陸軍の航空機開発機関に配属され、陸軍の新型機の開発業務に従事していたのです。軍用機製造における「資源」争奪戦は、資機材等の物品に止まらなかったようです。
~ 空挺部隊 ~
開戦劈頭の日本軍空挺部隊の活躍を称えた軍歌に「空の神兵♪」という名曲があります。東南アジアの石油関連施設(油井、製油施設 等)を無傷で手に入れるための奇襲攻撃を成功させるため、空挺部隊は日本軍にとって不可欠な部隊でした。しかしながら、日本陸軍と同海軍がそれぞれに「神兵」たる空挺部隊を編成していたことはあまり注目されていません。
1939年に勃発した第2次世界大戦では、ドイツ陸軍の機甲部隊と同空軍の急降下爆撃機のコンビが展開する電撃戦でベルギー、オランダ、フランス、ノルウェーが早々に席捲されました。その際、敵軍の背後に舞い降りて要衝(橋梁、要塞 等)を制圧・確保するドイツ軍空挺部隊の華々しい活躍が世界に報道されました。これを受け、南方地域の戦略資源(石油 等)の確保を目指す日本陸海軍も空挺部隊の編制・訓練を極秘裏に進めました。
対英米開戦に先立って、日本陸軍と同海軍の間で東南アジア方面へ侵攻する際の担当エリアが決められました。大まかには東南アジア地域の西側を陸軍が、東側を海軍が担当して侵攻する計画が策定されました。ここで海軍は、敵の航空基地を奇襲して占領する作戦に海軍空挺部隊(正式には「海軍特別陸戦隊」)を活用する方針を定め、セレベス島北部のメナド攻略戦(1942年1月)で大きな成果を収めました。一般的には、翌月に実施されたスマトラ島・パレンバンでの陸軍空挺部隊による奇襲作戦の方が有名で、大本営は軍歌「空の神兵」とともに華々しい宣伝を展開しました。
しかし、緒戦の華々しい連勝という状況もあり、一国において空挺部隊を陸海軍が別個に編成・運用する非効率さが問題視されることはありませんでした。空挺部隊を保有しようとした場合、特別の訓練施設(高架塔 等)と輸送機の確保が必要になりますが、陸海軍がそれら施設・装備を個別に保有することは非効率な二重投資に他なりません。しかしながら、日本陸海軍は相互に容喙しないという不文律を堅持していたことから、文字通り「二本」軍として貴重な資源の無駄遣いを放置することになりました。
~ 燃料供給 ~ 緊迫の南太平洋 ~
戦時中、艦船用燃料の調達を巡って日本軍の現場に緊張が走る場面がありました。
日本海軍が大規模な作戦を仕掛けるべく準備を始めたところ、ある艦隊の集結地点付近の海軍燃料基地に十分な燃料がストックされていないことが判明しました。別の海軍の燃料基地まで行って補給していては作戦開始時刻に間に合わないことから、当該艦隊の司令部は最寄りの陸軍所管の燃料補給廠から融通してもらうことにしました。
旧日本軍における予算・会計は陸軍省と海軍省とで別会計となっており、船舶用燃料を含む軍事物資は陸海軍がそれぞれ管理する仕組みになっていました。このため、海軍が陸軍から燃料を供給してもらう場合は、「艦隊司令部 →・・・→ 連合艦隊司令部 → 海軍省 → 陸軍省 → 方面軍司令部 → 軍司令部 →・・・→ 燃料補給廠」という決裁手順を踏まえる必要がありました。
このケースでも、艦隊司令部の担当参謀は陸軍の燃料補給廠のカウンターパートに依頼の連絡を入れるのと並行して、海軍の上部機関への上申手続きを進めました。しかし、陸海軍間の正規の手続きが完了するのを待っていては作戦発起時刻に間に合わないことから、海軍の艦隊は陸軍の燃料補給廠へ向けて移動を始めました。陸軍の燃料補給廠の責任者は、陸軍上部機関からの正式な許可が接頭していなかったにもかかわらず、一身の責任で、到着した艦隊に燃料を補給するよう部下に命じました。
~ 孤島でも糧食は個別管理 ~ 海軍はグルメ、陸軍は飢餓状態 ~
硫黄島など太平洋の要衝において日米両軍は激戦を繰り広げました。日本軍守備隊には、主力である陸軍の他に、海軍の諸部隊(陸戦隊、航空部隊、補給部隊 等)も展開していました。陣地構築や戦闘等に必要な物資は日本本土から輸送船で運ばれていましたが、当該補給物資は陸軍向けと海軍向けとに厳重に区分されていました。無論のこと、糧食も例外ではありませんでした。
「泥水すすり~ 草をはみ~♪」と、食料事情がいかに厳しくとも(文句を言わずに)戦い続けるべしという日本陸軍では、補給業務において武器、弾薬、関連資機材等の輸送を優先させ、糧食や医薬品等は後回しにする傾向が顕著でした。これに対して、「ボイラーやエンジンに燃料をくべなきゃ軍艦も戦闘機も動きゃしない」という合理主義を旨とする日本海軍は、将兵の胃袋にくべるべき「燃料」即ち糧食の補給についても常に配慮していました。
この結果、日本の陸軍と海軍が絶海の孤島で共に防御配置に就いた場合、なんとも厄介な状況が発生しました。守備部隊の主力であり、大人数を擁する陸軍の食糧事情は恒常的に苦しかったのに対して、海軍は比較的余裕がありました。このため、海軍の守備隊員達は、陸軍の将兵達から見えないところでひっそりと食事をしていたようです。
~ 情報の囲い込みで悲劇を誘発 ~ 台湾沖航空戦(1944年10月)の余波 ~
戦局が厳しくなってきた1944年(昭和19)後半、日本海軍は米海軍機動部隊に大打撃を与えるための作戦を立て、その準備を進めていました。日本海軍は、既に空母機動部隊が壊滅状態であったことから、陸上攻撃機部隊を作戦の中核に据えることにしました。当該方針を受けた海軍航空隊は、錬度の高い歴戦のベテラン搭乗員をかき集め、米機動部隊の警戒・監視及び艦載機の離着艦が困難になる夜間・薄暮・荒天時に航空攻撃を仕掛けるための訓練を繰り返しました。
米軍は同年10月、フィリピン攻略の準備として台湾及び沖縄の日本軍航空部隊に打撃を加えるため、空母十数隻を中核とする大機動部隊を台湾近海に進出させて両地域に激しい空爆を実施しました。日本海軍はこれを好機と捉え、陸軍の爆撃機部隊も加えた陸上攻撃機部隊に出撃を命じ、米機動部隊への夜間攻撃を敢行しました。
日本軍による累次の攻撃に対して、米艦隊は対空砲による激しい防空戦闘で臨み、その損害は軽微でした(空母1隻小破、重巡洋艦・軽巡洋艦各1隻大破)。これに対して、日本軍攻撃隊は多数の未帰還機を出す大損害を被りました。
米艦隊の激しい対空火器の猛撃からかろうじて逃れ、何とか帰還した乗組員達は、自分達が見聞した状況を基に戦果報告を行いました。夜間で戦況を冷静かつ的確に把握することが困難な状況であったこともあり、被弾した友軍機の火炎であった可能性があるような場合でも「敵大型艦が炎上」という主観に基づいた報告を航空隊司令部に上げました。航空隊の司令官や参謀達は、多数の搭乗員が戦死したこともあり、疑問符が付くような報告も敢えて精査することなく戦果報告を取りまとめました。当該報告について海軍軍令部も疑いを差し挟むことはせず、大本営海軍部は「空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、その他15隻を撃沈・撃破」という戦果報告を発表しました。
その最中、陸軍参謀本部の情報担当参謀がフィリピンへの出張途上に九州南部の海軍航空隊基地に立ち寄りました。海軍の作戦指揮所内は「米艦隊に大打撃を与えた!」として興奮状態に包まれていましたが、その一角に浮かない顔をした飛行隊所属の陸軍将校がいました。当該情報参謀が気になってその陸軍将校に声を掛けると、「海軍さんは大戦果だと騒いでいますが、出撃した私の部下たちは1機も帰還していないんです。」と力なく答えました。
作戦指揮所内の戦果集計ボードのあまりに華々しい表示に違和感を覚えていた当該情報将校は、指揮所を出て滑走路へ向かい、出撃から帰還したばかりの海軍機の乗組員達に戦闘状況などを詳しく聴きました。すると、米海軍の空母や戦艦などが爆沈した瞬間や大打撃を被って炎上する様を現認した乗組員は一人もいないことが判明しました。
海軍の戦果確認の精度に疑問を持った情報参謀は、フィリピンに出発する前に、陸軍参謀本部宛てに自身が海軍航空隊基地で見聞した状況を細大漏らさず報告しました。同情報将校は、フィリピン到着後に米軍の艦載機多数が同地に激しい空爆を加えている様を現認して、改めて現地司令部の陸軍幹部に九州南部の海軍航空隊基地で目撃した状況を説明し、米海軍の空母機動部隊は健在である可能性が高いとの戦況分析を報告しました。
しかし、陸軍参謀本部は当該情報参謀の報告を採用することはなく、海軍の「大戦果」を踏まえて重大な作戦計画の変更を決定しました。即ち、来攻する米軍を迎え撃つ決戦場をルソン島からレイテ島に前進させる方針を決めました。
日本陸軍は当初、フィリピンに侵攻してくる米軍をルソン島において迎え撃ち、米軍に可能な限り甚大な犠牲を強いることで本土決戦のための準備時間を稼ぐ方針でした。日本陸軍がルソン島を決戦場に選んだのは、同島が縦深性を有する面積を有しており、島の内部の山岳地帯は米海軍の戦艦による艦砲射撃の射程圏外になる等の状況判断からでした。このため、レイテ島が米軍に奪取され、そこに航空作戦の拠点を構築されることも甘受せざるを得ないと考えていました。
しかし、先の台湾沖の海上戦闘で米海軍の機動部隊が大打撃を被ったとの海軍情報を得た陸軍参謀本部は、レイテ島をあっさり米軍に渡してしまうのが惜しくなりました。日本陸軍の司令官や参謀達は「レイテ島に上陸してくる米軍部隊が空母機動部隊の航空支援を十分に得られないとなれば、同島を守る日本軍守備隊にも十分勝機はある。」と考えました。
そこで陸軍はレイテ島に増援部隊を送ることを決め、輸送船団を累次にわたって差し向けましたが、それら輸送船団は(海の藻屑となっていたはずの)米海軍の空母から発進した艦上攻撃機等から激しい攻撃を受け、多くが撃沈されてしまいました。かろうじて上陸出来た増援部隊も含め、その後の補給が途絶えてしまったことから、多くの日本軍将兵が餓死するに至りました。上記の増援部隊及び補給物資は、本来はルソン島での持久戦に備えるための兵力・物資であったことから、その後のルソン島における戦闘で日本軍は更に劣勢を強いられることになりました。
戦後、日本海軍の関係者は「台湾沖航空戦の『大戦果』に沸いた数日後、戦闘海域近辺を索敵した偵察機から『多数の正規空母、戦艦を中核とした米艦隊が航行中』との報告が連合艦隊司令部と海軍軍令部にもたらされました。」と証言しています。日本海軍の中枢部は、先に発表した大戦果は全くの誤報であったことをかなり早い段階で把握していました。
日本海軍は、大元帥陛下(天皇陛下)に上奏し、内外に華々しく戦果発表した手前、今更「あれは事実誤認でした」とは言えず、知らぬ顔の半兵衛を決め込むことにしました。しかしながら、判明した新事実(米海軍空母機動部隊は健在)は戦局判断を根底から揺るがす重大な情報であり、可及的速やかに日本陸軍に伝えるべきものでした。
~ ささやかな「統合運用」 ~
戦局が厳しさを増すなか、背に腹は代えられなくなった日本の陸海軍は、相互補完のために動き出しました。陸軍参謀本部からは連合艦隊司令部に連絡将校が派遣されて常駐するようになり、瀬島龍三陸軍少佐(戦後の小説「不毛地帯」のモデル)など、作戦畑の俊英が海軍の参謀達と机を並べて勤務するようになりました。
現場では、陸軍航空隊の隊員が海軍航空隊に出向き、苦手な洋上戦闘要領を教えてもらうようになりました。訓練は順調に進み、陸軍航空隊の隊員達が自隊に戻って作戦行動に移る段階になった際、彼らは訓練期間中にチームを組んだ海軍航空隊の乗組員達と共に出撃することを願い出、軍上層部もこれを認めたと伝えられています。
~ 米軍、英軍は? ~
第1次世界大戦後、航空部隊の運用方針を巡って英国陸軍と同海軍とで主導権争いが起こりました。陸軍にとって航空部隊は、地上戦闘を空から強力にサポートする重要なコンポーネントでした。一方、海軍にとって航空部隊は、洋上において水平線の彼方の敵艦隊を索敵する「艦隊の目」であり、敵艦隊に打撃を与える「長い槍」であり、敵航空部隊から艦隊を守る「丈夫な盾」でもありました。要すれば航空部隊は、陸海軍双方にとって「期待のルーキー」であり、少しでも多くのアセット(飛行機、人材 等)を確保したいと考えていました。
世界大戦の反動で国防予算規模が急速に縮小する状況下、英国陸海軍の縄張り争いがエスカレートしていきました。この状況にうんざりした英国政府・議会関係者は、喧嘩両成敗で「航空部隊を独立させて、陸軍と海軍を空から支援する仕組みを作ればいいではないか。」との結論に至り、英国空軍( Royal Air Force )が創設されました。
事情は米国も同様ですが、これを政治の強力なリーダーシップがコントロールしていくというのが同国の信条です。ホワイトハウスの補佐官達や国防長官等の政府高官ポストには政・財・官・学・法曹界等で抜きんでた実績を積み上げてきた人士らが補職され、大統領の安全保障政策の立案・執行をサポートしています。米国においては、これら大統領側近のスタッフ達が、米国の安全保障政策の枠組みの中で4軍全体を俯瞰しながら調整していくスタイルが定着しています。
米国大統領が米軍の最高司令官として位置付けられていることを象徴する写真があります。第32代米国大統領のF・ルーズベルト(在任:1933~1945年)が米軍幹部と記念写真を撮っているのですが、大統領の両脇に陸軍参謀総長と海軍作戦部長が座り、陸軍参謀総長の後ろには陸軍航空隊司令官が、海軍作戦部長の後ろには海兵隊総司令官がそれぞれ立っています(陸軍航空隊は1947年に米空軍になりました。)。米国大統領が同国陸軍、海軍、空軍及び海兵隊の中心に位置し、総体としての米軍が最大限に能力を発揮できるようにシステムが構成されているわけです。
「陸軍と海軍の仲が悪いのは古今東西いずこも同じ」というのが通説です。このため、欧米各国の政府は、「陸軍と海軍のケミストリー(相性)が合わないことを織り込んだうえで両軍種を管理・運用すべきである」と考えています。